いま空前のバレエ・ブーム
-その県内のパイオニア-

熊谷重子バレエスクール代 表
熊谷 重子 氏



 とどまるところを知らない昨今のバレエ・ブーム。トップダンサーが出演する劇場の楽屋口には、まるでジャニーズ系や宝塚を彷彿とさせるほど、たくさんの追っ掛けギャルが詰めかけるという。
 熊谷重子さんは、昭和29年4月に秋田市千秋矢留町にバレエスクールを創設。以後、秋田のバレエ界の草分けとして、常に業界を先導してきた第一人者だ。
 今号では、バレエスクールの経営者であり、現役ダンサーとしても活躍する熊谷さんに話を聞いてみた。
先生がバレエを始めたきっかけは・・・

熊谷●子供の頃の私は身体が弱くて、父は少しでも丈夫になるようにと日本舞踊を習わせようとしていたんです。でも、その当時ちょうど増村克子先生が秋田に初めての洋舞の教室を開いたこともあり、なぜかそっちの方へ行っちゃったんです。


子供の頃からプロを目指したのですか・・・

熊谷●バレエを始めてすぐ“自分の道はこれだ”と感じました。それからはもう懸命に稽古しましたね。 後年、増村先生が東京へ出られましたので、秋田ではお稽古ができなくなりましたが・・・。

それで単身で上京なさる訳ですね・・・

熊谷●15歳になったばかりのことでした。東京では江口隆哉・宮操子夫妻に師事しまして、5年間の修業の後、秋田に帰って独立し、バレエスクールを始めた訳です。


熊谷さんがバレエスクールを始めた昭和29年といえば、日本が敗戦からようやく立ち直った頃。当時の秋田県人に、バレエのような芸術に目を向ける余裕などとてもなかったと思いきや・・・。

熊谷●秋田の人は、新しもの好きですからね。最初はすごい反響でしたよ。もともと、石井漠、和井内恭子といった中央で活躍するトップダンサーを輩出した土地柄でもありますから、ある程度の認識はあったんでしょう。レッスンを受ける生徒さんはもとより、見学者が引きも切らないといった状態でした。


 そして同年9月には、県の記念館(現県民会館)で早くも第1回発表会を開くことになる。当時の記念館は木造で、三方の窓を秋田市内の学校から集めた暗幕で覆い、演劇部の生徒にスポットを当てさせるという、にわか仕立てにもかかわらず、立ち見まで出る盛況ぶりだったという。

熊谷●それだけ文化的なものに飢えていたんでしょう。そのとき、単に踊って教えるだけではなく、この秋田でバレエの良さをより多くの人に知ってもらうべく、啓蒙普及に努めることも私の大事な使命なのだと感じました。


 そして、熊谷さんの全県をマタに掛けての普及活動がスタートする。当時の八面六ぴの活躍は今でも語り草になっているほどだ。私生活でも昭和33年には教員であるご主人(豊島慶男 現秋田大教授)と結婚、そして出産・子育てと、バレエと家庭との間で悩んだこともあったろう。

熊谷●主人をはじめ、両親や姉弟たちの理解と協力があったればこそ、何とかこなしてこれたのです。また、教え子のみならず多くの父兄の方達にも支えられてきました。そうしたいろんな人のお蔭で今日の私があるのです。


 当然のことながら、門下からはダンサーとして県内外で活躍する多くのスターが巣立った。県内だけに目を向けても、小野恵子(八郎潟町)、渡部ひろみ(男鹿市)、渡部立子、熊谷憲子、長谷川咲子(共に秋田市)など、指導者として教室を構えるまでに成長した教え子は枚挙にいとまがない。

熊谷●プロになって活躍してもらえるのはとても嬉しいことです。しかし、お稽古事というのはそれだけではありません。成長期に芸術に触れることで、心の豊かな大人になってもらえれば、というのが私の願いです。父兄の方にも、そうした情操教育のひとつとして捉えていただければと思います。


 ひたすらバレエの普及に心を砕いてきた熊谷さんだが、芸術家としての名声の裏には、経営者としての人知れない苦労もあったろう。

熊谷●昔はお稽古事といえばピアノとバレエくらいしかなかったんですけど、今はあまりにもいろんな教室がありすぎます。それに、ほとんどの子供が進学塾に通ってますし・・・。むしろ昔より今の方がたいへんですね。


 昭和50年代に入ってからのカルチャーブームにより、子供ばかりではなく大人もさまざまな稽古事を気軽に始めるようになった。折からジャズダンスやエアロビクスの人気が高まり、一時期はニーズはそちらへ偏った。昭和60年には秋田でもさきがけカルチャースクールが開講。そして、婦人会館や社会保険センター、さらには各地の公民館などの公的機関でも教室を設置し、熊谷さんのスクールには次々と講師の依頼が舞い込むことになる。

ステージでの熊谷さん

さきがけカルチャーには開講と同時に講師の派遣をなさいましたね・・・。

熊谷●ジャズとエアロビの教室に私の長女を講師として派遣しました。私の持論として、カルチャースクールはあくまでも余暇を楽しむためのもので、芸術性を追求する踊りは馴染まないと判断し、あえてバレエでは参入しませんでした。


 その間、昭和50年に秋田市広面の自宅に稽古場を併設して第2スタジオをオープン。同60年には同市保戸野鉄砲町に3階建ての豊島ビルを購入、第1スタジオを矢留町から移転した。そして、二女の豊島季里子さんが後継者として成長、今では運営のほとんどを任せられるまでになった。


スタジオでお弟子さんたちと

 また、秋田県芸術選奨、秋田市文化章といった数々の受賞歴を持ち、他の追随を許さない。

熊谷●ただただ踊りが好きで夢中で走り続けてきただけです。私達がステージから発するメッセージにお客様が感動し、またお客様からも感動をいただく。このキャッチボールがライブの醍醐味です。年齢的なこともありますから、いつまで踊れるのか分かりませんが、身体の許すかぎり現役で頑張りたいと思います。


 現在熊谷さんは、秋田県現代舞踊協会会長、秋田市文化団体連盟副会長など多くの要職に就いており、本業以外でも何かと忙しい毎日だ。
 年1回の発表会は数えて43回目。今年は11月10日、秋田県民会館で開催する。秋田のバレエ界のパイオニア 熊谷重子のステージを楽しみにしているファンは多い。

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