![]() |
言 文 一 致
|
グループCFG ・代表 北澤 正一郎 氏 |
「街道をゆく」という本の中で、故司馬遼太郎氏は、二葉亭四迷の「浮雲」(明治20年刊)が言文一致小説の最初で、このことはよく知られていると記しておられる。 言文一致というのはもちろん、話し言葉と文章が一致するということであるが、同書によると四迷が坪内逍遙に相談したところ「円朝の落語(はなし)通りに書いて見たらどうか」と言われ、かれ自身 「浮雲」 のことを「円朝ばり」とよんだほどまねをしたそうである。 辞書によると「ばり」というのは「まねる、似せるの意」とあるが、ともかく文章語の成立のために三遊亭円朝がはたした役割はじつに大きいと言える。 つい最近ぼんやりとテレビを見ていたら、この言文一致という文字が飛び込んできた。 それは「日本人と西洋音楽」というテーマで,團伊玖磨氏が解説されている番組で、私が見たのは「折から文学の世界で進行していた言文一致運動と並行して、口語体の唱歌を作ろうという運動が起った」「明治30年代初頭に言文一致唱歌が誕生、唱歌の歴史のうえで忘れてはならない」と話されている時であった。 テキストを求めると、それまでの唱歌の詞は文語体で「吉野を出でてうち向う」(四條畷)「雲に聳ゆる高千穂の」(紀元節)のように格調はあるものの、やや大仰なことは否めないものであった。 そこでもっと生きた言葉(口語)で子供の生活感情に密着した歌を作りたいという欲求が出てきた。 文語体擁護派との間で論議をたたかわせる一方、今でもよく歌われている「キンタロウ」や「うさぎとかめ」 「はなさかじじい」などの唱歌が創られたとある。 話は変るが、たまたま情報と言われる分野に首をつっこんでいる一人としてしばしば経験することがある。 それはいろいろな話の中で、「情報とは何」「情報化とはどのようなこと」という問いかけをすると、大変失礼ですがそれが分らなくなっている方にお会いすることである。 大きな声をあげて注意をうながしたり、危険を知らせるために狼煙を上げたり馬を走らせたりと、それこそ情報活動は大昔から誰でも自然に行ってきたことであるのに、「私は情報化のことが分らない」「若い人にまかせる」 となってしまうのはどうも可笑しい。 どうやら情報の分野にも言文一致運動が必要だと言えそうである。 「文章の目的は、達意である」と言った徳富蘇峰、「サルでも読めるように」と言った福沢諭吉のように、「企業における情報化とはどういうことなのか」「情報化とコンピュータとの関係」などなどを分りやすく伝えるべきではないだろうか。 「LANでどうの」 「インターネットがこうの」と言うのも結構であるが、「うらのはたけで、ぽちがなく、しょうじきじいさん、ほったれば、おおばん、こばんが、ザクザクザクザク」のように、どうすれば情報化が実現できるのかを、生きた言葉で誰もが理解し活動できるようにする必要がある。 |