不況を超えて
 〜発展・繁栄思考からの出発〜

株式会社帝国データバンク・秋田支店
 支店長  鈴木 勢市 氏


 株価の最安値更新から1万3000円割れ、企業業績の下方修正など経済環境、景気にはなかなか好転の兆しも見えてこない。書店の雑誌には「恐慌」「危機」「最悪」など不安を募らせる字句が踊り、日本国のダッチ・ロールはいよいよその激しさを増しているかに見える。そのなかで今般国賓として来日した韓国の金大中大統領は、一服の清涼剤として映った。25年前の東京のホテルでの拉致事件にみるまでもなく、これほど数奇な運命を辿った政治家はさほど多くはないであろうし、まして国益よりも、我が身の保身にのみ汲々としている我が国の政治家と較べたとき、なにやら清々しさを感じたのはなぜだろうか。
  政治的信条や思想の別はともあれ、大統領には一国を背負って立つあるべき政治家としての気概を感じさせるものがある。宮中晩餐会での天皇陛下への答辞のなかでの「隣国に対する礼と誠意」は大統領であるまえに、一政治家、一個の人間としての言葉ではなかったか。韓国の経済危機はIMFの管理下にあるように日本の不況の比ではない。失業あり、労働争議あり、倒産ありの深刻な情勢下、それでも日韓両国の比較論でいわれることは韓国人には国を愛するという気持ちがあり、そこから生まれる団結心があることだという。翻って我が国をみるに、いわばこの国難の時世に金融再生法案ひとつまとめるのにああでもない、こうでもないのもたつきぶりだ。なるほど時の宰相のリーダーシップの無さはあろうが、国が一つにまとまるかどうかは全く別個の次元の問題であろう。もっとも、ものは考えようで、左右上下に綱引きをやっている中途半端な状態が存外日本という国にとっては幸せな状態なのかもしれない。
  ともかくも堺屋太一の指摘する日本民族が全員パーティをしながら沈んでいくという“タイタニック現象”だけは願い下げにしてほしいものだ。戦後50年、南京事件の論争をみるまでもなく日本人の自虐性は相当なものだ。政治、経済からスポーツ、芸能にいたるまでこれでもか、これでもかとネガティブな話題のみを追い求める。最近聞いたラジオの番組でコメンテーターが言っていたことに、日米の比較はスポーツの話題一つとってみても明確に異なる。それは米国のマスコミが取り上げるのは大リーガーの派手なホームラン競争であり、かたや日本では相撲界の若貴兄弟の家庭争議やプロ野球ではシーズン終了を間近に控えての首切り問題がテレビや新聞、週刊誌の話題を独占する。
 一体だれが他人の兄弟喧嘩や家庭不和、あるいは首切りを喜び、だれが得をするというのか。同じことは企業倒産にもあてはまる。倒産という現象のみをとらえれば、古今東西を問わず深刻な問題に違いない。しかし彼の国では企業倒産は経済の新陳代謝の中での一つのプロセスに過ぎない。適者生存という原理のなかでの避けることのできない経済現象であり、当然のことながら倒産統計も健全な企業のための統計でしかないという考え方が根底にある。民主主義と市場経済で世界を制覇した米国ならではのダイナミズムが窺われる。繁栄を誇ったかつてのローマは、ローマを愛する人々によって築かれたという。ならば混迷の極みにあるこの国の人々も「幸福になれない症候群」からいちはやく脱するために自ら身を置く国を、企業を、そして家庭を愛することから始めねばなるまい。

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