タイトル-経営さぷりメント
経営にデザインを 秋田美術工芸短期大学 産業デザイン学科長 五十嵐  潤
デザインとは
 デザインとはどのような職業かと問われるとき、「人にトキメキを与える仕事」と説明している。少なくとも、デザインとはそのような職業でありたいと考えている。では、人はどのようなときに「ときめいて」くれるのか、どのような提案をすれば「ドキドキ」「ワクワク」してくれるのか。
 それは、人の「気持ち」を動かす仕掛けがなされているかどうかである。「動き」の幅は問題ではなく、その仕掛けの巧妙さこそデザインの質である。
 企業活動も同じではないか。人々にどのようなモノ(商品)やコト(サービスや仕組み)を提供したら、「ときめいて」もらえるのか。過剰なほどの道具やサービスで溢れている成熟社会では、企業の魅力は、規模や提供価格の安さだけではない。品質や使いやすさが提供されているのは当たり前だから、新たな魅力にはならない。消費者は、どのような「ドキドキ」「ワクワク」を届けてくれるのかと企業を観察しているのである。
 デザインの専門性は、造形性と発想力とにある。しかし、デザインについての認識は、この2つの専門性について誤解を伴っていることが多い。
 造形性についての専門性とは、確かに「見栄え」を良くすることであるが、「見栄え」は、豪華にすること、派手にすること、人を驚かせる奇異な形にすることなどと間違えて捉えられる。シンプルで無駄のない形態によって「見栄え」を良くすることが出来ることには、なかなか気づいてくれない。「無印良品」の商品群など身近な例があるにもかかわらずである。
 他方、発想力についても同様で、人と違う考え方が出来なければならないのは前提であるが、突飛な考え方、奇想天外な考え方をする変な人間集団とも思われていそうである。高度経済成長期であればその様な側面があったかもしれないが、著名なデザインの多くに(ロングセラーの椅子など)突飛な発想はあるのかというとそうではない。では、ここで言う発想力とはどういうことであろうか。
デザインは発見する技術
 人の「気持ち」を揺り動かすためには、人の行動、行為、生活を観察し、その中から有効と思われる着眼点を見出すことが必要である。この着眼点は、多くの場合、当たり前すぎて見過ごしていることだったり、思い込んでいて気がつかなかったりするようなことである。デザインとは、日常の事象を違った角度から眺め、本来持っている日常の魅力を引き出す仕事であるように思う。だから、デザインは、発明でなく、発見の技術なのである。発想力とは、この技術を活かす方法論のことである。
 日々の生活の中で、人はどのようなコトに感動しているかを、偏見のない態度で見出し、身近な生活の中にある「コト」の魅力を提示してみせるのだ。人は、全く新たな出来事には、意外と心が動かない。理解が出来ない内容には驚きこそあれ、感動はしない。むしろ、身近にあったのに気づかなかった魅力を提示してみせることで共感を得る。「あぁ、確かにそうだよね」「なるほどね」と気持ちが動くのである。
 デザインの専門性とは、その着眼点を使って形態に具現化する技術であるが、可視化する造形技術のみがクローズアップされ、前述の「見出す技術」の評価が低いのも事実である。
デザインと商品開発
 デザインはビジネスにマーケット・イン※の視点を持ち込む。なぜなら、デザインとは人の気持ちを読み解く技術であり、マーケティングの側面から観れば、まさに「マーケット・イン」の手法なのだから。従って、デザインの手法は企業活動、とりわけ商品開発に有効である。
 人(ターゲット)を観る。マーケットを観る。これは、企業活動を継続してゆく基本である。デザインとは生活を観、人を観、マーケットを観て、顕在化していない人々の欲求(Wants)を具現化してみせる技術である。企業の都合で新たに生み出された欲求ではなく、人々の生活の中に潜在的にある「気持ち」を紡ぎ出すのだ。デザイナーとは、それらに気がつき、意識する仕組み(広告・宣伝)やもの(商品、サービス)を作る支援をする専門職といえる。
デザインの認識
 デザインが企業経営に有効に機能する(サプリメントとなり得る)ためには、経営者のデザインに対する認識を変えなければならない。企業におけるデザインは、作品を作る訳ではなく、デザイナーの個性発揮の場でもない。企業経営の視点で、どのようにデザイナーを活用(デザイナーの個性を利用するコトも含めて)すべきかを認識していなければ、経営の活力、資源となり得ない。そのためには、デザイナーに的確な指示を出し、評価が出来なければ本来のビジネスは成立しない。デザイナーは企業経営に必要なビジネスパートナーでなくてはならないのだ。「デザインはわからないからお任せします」、「説明はいらない、自分の感で判断する」という認識であれば、いつまでたってもデザインは有効に使えない。提案したデザインが、クライアント(依頼主)の求めるコトに如何に有効であるかを説明しないデザイナーがいるとすれば、大いに問題とすべきである。
 他方、デザインは、消費社会が成立した時から良くも悪くも人々の欲求を(時には欲望も)具現化し、その力ゆえに企業活動を支えるものとして価値を認められてきた。デザインがその結果として人の意識を操作する仕事だとすれば、社会性とその責任の重さを担わなければならない。企業が利益追求のみで社会的な規範を逸脱すれば非難される訳であるから、デザインは使用者、生活者の視点から企業活動や商品開発を観なくてはならない。
 作り手(企業、クライアント)は、多くの場合、自社製品に自信を持っているから、使い手(消費者)の側の視点で判断できない。「こんなに良いものを作ったのだから」売れるはずであると考える(プロダクト・アウト)。しかし、使う側からすれば、そのような機能、性能が重要だとは考えていない場合がしばしばある。企業からのデザイン依頼であっても作り手と同じ思考、視点に立っていてはいけない理由がここにある。作り手に見過ごされがちな使い手の視点を持ち込むのがデザイナーの役割である。
気持ちのデザイン
 最後に、人の気持ちを理解する上で忘れてならない状況がある。今日の消費社会では、デザインは差別化の手段として使われている側面がある。同じ機能、値段であったらデザインが良いものを選ぶのは何故か。それは、自分にとって、どちらの方が気持ちよく受け入れられるかということである。
 では、私達はいつもこのような購買行動をしているであろうか。私たちの消費行動は、案外合理的ではない。人は機能や効果にはコストパフォーマンスを求める。場合によってはデザインはいまひとつでも、性能が良く安いものを選択する。一方、「気持ち」を満足させるものには、性能を求めることは少ない。高ければ高いほど良かったりするのだ。ファッショングッズ、時計、車、仏壇など。その機能のみを考えたら購入費用は説明できない。人の気持ちとはそう言うものだ。社会が成熟すればするほど、この傾向は顕著になる。日本の社会は明らかこのような方向に向かっている。だとすれば、どのような物作りをすれば良いのか。企業の物作り(機械でも食品でもサービスでも)は、ますます人の気持ちを理解する必要があり、人の気持ちに届く商品開発が求められている。